江戸時代後期第九代藩主として混乱に向う世の中、積極的に藩政改革「天下の魁」をめざし文武の奨励、農村の復興、武備充実等に手腕をふるいました。
水戸藩歴代藩主のなかで、斉昭公は、藩政上の事績・学職・人物の点からみて、第二代の徳川光圀公と並び称される存在としてひろく知られています。
斉昭公は、天保期(1830〜1844)から幕末へ向かう内外きわめて多難な時代に積極的な言動をもって日本で最も影響力をもつ男となりました。
「追鳥狩」は文武不岐の気風をおこし、日頃の鍛錬に励みその実施訓練を決行したのが始まりです。
第1回は、1840(天保11)年千束原で威風堂堂とおこなわれました。
その規模は武者3千、騎馬隊・鉄砲隊・医療班などの総軍勢1万2千余を数えた大演習で、正に一大絵巻であり、天下に水戸の先取の精神を呈しました。
それは全国的にも注目されました。
欧米列強の圧力増大、幕政の腐敗堕落の凡潮を打開するため、優秀な人材を養成すべく、天保12年(1841)に藩校「弘道館」を創設し、蘭学、洋学の研究にも熱心に取り組みました。
又、天保13年(1842)に自らの設計で「偕楽園」を造園しました。日本三名園の一つ梅の公園として全国にその名が知られています。
斉昭公は、『安政の大獄』で幕府より謹慎を命じられて後、水戸城中で61歳で没しました。 |