1628(寛永5)年、水戸藩初代藩主頼房公の三男として側室お久の方から生まれ、幼名を長丸と言いました。頼房公は大勢の男の子の中から長丸を世継ぎと決めたのです。父頼房公の目には狂いはなく、長丸は文武に秀でて情が深く、人の上にたつ力量を備えていました。世継ぎになってから名を千代松と改め、7才のとき江戸城に登り、当時の将軍家光公に拝謁しました。
1636(寛永13)年9才の時江戸城内で将軍家光公立合いのもと、元服(昔の成人式)し、家光公の光の一文字をいただいて光国と名乗るようになりました。
1661(寛文元)年父頼房公が亡くなり、34才で第二代藩主の座に就いた光圀公は、民政に力を入れ、勧農政策を実施、藩職制の整備、教育の振興等、善政を施し、数々の大事業を行いました。中でも学文に情熱を注ぎ、特に歴史に深い関心をいだき、全国から優れた学者を集め「大日本史」の編纂に努めたことは特筆されます。
1690(元禄3)年、家督を兄頼重公の子綱条に譲り、その翌年から太田郷西山荘に居を移し、自ら西山隠士と名乗って悠々自適の生活を送り、1700(元禄13)年、72年の生涯を終えました。
名君の誉れ高く、民治面での事績の多いことでも知られております。これがのちに「この葵の紋所が目に入らぬか!」と切り出して、悪人を懲らしめる江戸時代のスーパーマン「水戸黄門漫遊記」の元となったのです。 |